植野稔の自然遊悠学 イワナだ! ヤマメだ! 山菜だ! きのこだ!!

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2009年 03月 01日

537 暖冬で終了、今年の冬

男鹿川周辺の冬
■積雪量
2008年クリスマス寒波襲来で、3日間に及ぶ積雪を記録。
毎日雪かたしに朝晩動員され、2009年にかけて滑り出しが順調な冬になることを予想していた。
「今年は雪下ろし」我輩の住処である下野中三依地区限界集落住人の合言葉であった。
その雪が2009年になってからさっぱり降らない。
2月になると暖冬傾向がいっそうはっきりしてくる。
「雨になる」
真冬なのに雨が降っている。
男鹿川に雪解けによる増水記録4回。
もはや疑いのない今年の冬を象徴している。
結局、2009年度の積雪を総括すれば、記録的な少雪になった。
3月1日現在、我が家の屋根に雪はない。
このまま降雪がなく、春がそこまでやってくる暖冬傾向ではあるけれど、多少の雪を記録するに違いない。
しかし、3月の雪は春雪といって厳冬期雪と比べて、降っては溶ける雪になり、標高の高い山岳部以外、積雪とはならない。

■雪の功罪
必要不可欠な雪
雪の待望論者といえる、私なりの考えがある。
山の水確保方法として、雨、雪がある。
高気圧、低気圧による気圧の移動中、上空温度の高低で雨になったり雪になったり、水分は雨の場合液体になり、雪の場合は固形となって、山地へ降ることになる。

山地雨
健全な森であれば、山地に降った雨は葉から枝へ伝わり、樹幹から大地に注がれる。
山地含有水分能力差で、水分は土中に吸収される場合と、山地面の高低差で水は下部に表面を移動する。

山地雪
山地に固形化された水分が雪となって、山に積雪をもたらす。
上空の温度にもよるが、厳冬期なら山岳地の雪はそのまま固形の雪となって、降雪地にそのまま雪となって残存する。
山地雪のできあがりである。

雨と雪
山地にもたらされた雨の場合、液体の水分であるから、降雨強弱、水分保水能力にもよるが、高低差の水分流下速度は条件次第で決まることになる
山地のもたらされた雪の場合、環境温度にもよるが、上記どおりに雪はそのまま残されて、水分は溶け出すことはない。

雪の功
雨水分が大地に吸収されず下部に流下するのと、大地に吸収される一定の割合の資料は承知していない。
それに対し、降雪された雪は大地に残されていることが多い。
平年並みの冬であれば、山地は一面の雪景色となる。
雨が山地に含有されずに一部の水分は流下してしまうことに対して、雪は当たり前であるがそのまま降雪地に固形水分としてあるのは前記に記した。
山地植物にとって一年を通して厳しい季節となる。、冬季前はそれなりの冬越すための準備を整える。
例えば広葉樹は葉を落とす手段をとる。樹木を落葉させることによって、ほぼ冬眠状態になり、生長をとめて冬に備える。
問題は冬越しできない根の存在がある。
冬季、標高の高い極寒地高所では氷点下数十度のブリザードが樹木を襲う。
寒風にさらされれば、根は氷ついてしまう。
そこでの助けとなるのが雪なのだ。
積雪があれば雪面は氷点下でも、雪下大地は氷点下以下にはならず、雪真綿効果で植物根細胞を守ってくれるのである。
雪があるから厳しい冬でも植物たちは暮らせることになる。
山地に雪があるのとないのとでは、その地に自生している山岳地植物群の豊かさを垣間見ることができる。
更に、固形水分である雪の大地吸収速度、これがゆっくりと大地に含有させることになる。
山地が豊かなダムといわれる所以こそ、ゆっくり時間をかけて山に吸収させる水分吸収速度の遅さにあるのではないかと私は考えている。
山地の降雪、雪解けが長いときをかけて大地にしみこむ厳しい冬があって、たっぷり水分を含んだ山地天然ダム(治水ダムではない)とて、冬雪の大切な役目があってこそ存在できるのである。

雪の罪
高齢化が著しい雪国民に襲いかかる、大量の降り積もった雪の存在は辛い。
「雪下ろし」「雪かたし」毎日毎日、朝晩の日課となる冬雪の除雪は雪国の厄介者だ。
大量の雪始末で、たった一つしかない命を天国に持っていかれる事だって報道としてある。
「山は山地民が守っている」「冬にいないよそ者に、山荒しされたら腹が立つ」
私が山で暮らすようになるまでまで、山村民の気持ちを理解できないままであったが、下野限界集落民となってから次第に、彼らが言うことに多少ながら同情心が芽生えしてきた。
「山国に春が来ない年はない」との例え通り。厄介者が終わった春に、山地民に山の幸が次の冬まで約束してくれる、ありがたい季節がやってくる。
都会にない、山菜、渓魚、きのこ、木の実を豊産してくれるのも、豊かな雪がもたらせてくれるのだ。

雪国のこれから
雪は確かに厄介だ。
しかし、辛抱した冬越しの果てに春がやってきて、山の恵みを頂戴できる季節も必ずやって来る。
今後、天然に存在する山の幸が脚光を浴びる機会は多々ある。
厄介者雪を逆手にとって、スノーシュー、山スキー、かまくら遊びなどが楽しめる。
雪の罪を功に転換だってできる。
従って、雪は私にとって、それほど厄介な存在ではない。
天涯孤独の私にとって、人の往来が少ない冬の雪風景も悪くない。
自由に気ままな山歩きができるのも雪があってこそ可能だ。
「素美人山」の存在を確認できるのも雪山があってできる。
丸裸の山岳トレッキングは山を知る絶好のチャンスでもある。
雪山こ、私にとって、山と正面きって対峙できるので、大切な充填時間といえる。
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by yuyugaku-ueno | 2009-03-01 21:55 | 身辺雑記


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